私が、教会に通うようになったのは、当時一歳一ヵ月のひとり娘に起きた事故がきっかけでした。台所で、煮立ったスープを頭からかぶってしまったのです。急いで病院に連れて行きましたが、手当てが進むにつれて、負った火傷のひどさがわかってきました。医者はベストを尽くしてくれたのですが、どこまで回復できるか全くわかりません。彼女の将来を考えると、不安で一杯でした。そのような時、最も励ましとなったのは、クリスチャンであった妻の祖母の祈りでした。
その祖母に誘われて、私は初めて教会に行ったのです。教会では、数人のクリステャンが真剣に祈ってくれました。祈りが応えられて、娘はわずか一ヵ月で火傷の跡がわからないほど奇蹟的に回復したのです。私は、娘が癒された喜びと共に、祈りに応えられる神を知りたいと思うようになりました。神とはどのようなお方か、神と自分にどのような関係があるのか知りたかったのです。そのような時、私にそれを教えてくれたのが、次の聖普の言葉です。
「神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じるス者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(聖書)
私は、ひとり娘の苦しみに心を痛め、なやみ苦しんだことを思うと、「そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」という神の愛が、どれほど大きく強いかがよくわかりました。
そして、その愛が、愛される資格のない私のためにも注がれていることを知った時、私は深い感動に包まれ、この神の愛を受け入れ、イエス・キリストを心にお迎えしたのです。その時以来、私の人生は変わりました。何をしても満たされなかった私の心の中に、神に愛されている喜びが泉のように湧き上がるようになったのです。武力、経済力、学力、体力、…私たちの周囲には様々な力があります。しかし、一番大きな力は愛の力です。神の愛は罪の赦しを与え、救いを与え、不安な心に平安を与え、失望している心に喜びと永遠の命の希望を与え、新しい人生を与えます。
今、これを読んでくださっているあなたも、この神の愛と決して無関係ではないのです。「世を愛された」という「世」とは、あなたのことだということを知ってください。私たちの罪のために十字架につき、死んで葬られ、三日目によみがえられたイエス・キリストこそ、あなたを愛する神の愛のあらわれなのです。この神の愛が、今、あなたの上に注がれているのです。
Chu Kosaka